yutaのブログ

読んだ本の紹介

『人間の条件』(第3.4.5章)

第3章 労働

 近代は伝統をすっかり転倒させた。すなわち、近代は、活動と観照の伝統的順位ばかりか、<活動的生活>内部の伝統的ヒエラルキーさえ転倒させ、あらゆる価値の源泉として労働を賛美し、かつては<理性的動物>が占めていた地位に<労働する動物>を引き上げたのである。しかし、このような近代も、<労働する動物>と<工作人>、すなわち「わが肉体の労働とわが手の仕事」をはっきりと区別する理論を一つも生みださなかった(139)。

 私的領域である家において、市民は生命維持の営みである労働から解放されるために、奴隷を使っていた。労働から解放されることで、公的領域の中で活動することができる。しかし、近代になると、活動の意義が失われ、「労働」優位に転倒した。また、アーレントのいう労働と仕事がまとめて「労働」と見なされ、それらは区別されなくなった。

 

 活動と言論と思考は、それ自体では何も「生産」せず、生まず、生命そのものと同じように空虚である。それらが、世界の物となり、偉業、事実、出来事、思想あるいは観念の様式になるためには、まず見られ、聞かれ、記憶され、次いで変形され、いわば物化されて、詩の言葉、書かれたページや印刷された本、絵画や彫刻、あらゆる種類の記録、文書、記念碑など、要するに物にならなければならない(149)。

 仕事とは、生物界にはない新しいものを作り出すことであり、それには耐久性がある。それに対して、労働によって作り出されるものは、すぐに消費される。

 言葉や思考は、形にしないと空虚である。ものとして形を与えることで(物化)、他者と共有可能になり、リアリティをもつ。

 

 増大する富と専有が共通世界に消滅の脅威を与え始めたときでさえ、(財産は)共通世界との接触を保っていた。財産はそれ自身の世界保証のゆえに、世界にたいする労働過程の無関係性を強めるどころかむしろ和らげる。同じように、労働の過程的性格や、労働が生命過程そのものによって押しつけられ強要される場合の無慈悲さは、財産の獲得によって阻止される。労働者あるいは賃仕事人の社会と違って、財産所有者の社会では、人間の配慮と懸念の中心にあるのは依然として世界であって、自然の豊かさでもなければ生命の純粋な必要でもない(173.174)。

 近代になると、財産の固有性や耐久性を重視する考え方が失われ、自らの富を増やすようになった(第2章 第8節)。

 財産は公的領域での活動に参加するための基盤になる。したがって、財産は公的領域の根本にある共通世界と関係がある。それに対して、労働(富、専有)は、世界との接点をもたない。

 

 <労働する動物>の理想を実現するうえで待ち構えている明白な危険信号の一つは、私たちの経済全体がかなり浪費経済になっているということである。この経済においては、過程そのものに急激な破局的終末をもたらさないようにするために、物が世界に現われた途端に、今度はそれを急いで貪り食い、投げ棄ててしまわなければならない。しかし、もしこの理想がすでに実現されており、私たちが本当に消費者社会のメンバー以外の何者でもないとするなら、私たちはもはや世界に生きているのではなく、ただ、一つの過程に突き動かされているだけだということになる。この過程の絶えず反復されるサイクルの中では、物は、現われては消滅し、姿を見せたかと思うと消えてしまい、十分に接続して生命過程をその中に閉じ込めるということはけっしてない(196.197)。

 人々が労働から解放され、余暇が増えた(、また近年におけるオートメーションの)結果、人々の消費欲求が高まってきた。消費の加速によって、ものの耐久性が失われ、共通世界の解体が進んでいる。

 

第4章 仕事

 <工作人>の仕事である製作は、物化にある。最もこわれやすい物も含めて、すべての物に固有の固さは、その工作の対象となった材料から生じる。・・・材料とは、すでに人間の手になる生産物であり、人間の手が、自然の場所から取り出してきたものである(227.228)。

 物化とは、材料になるものを自然から取り出し、人間の世界へと持ち込んで、新たな場所を与えることである。

 

 仕事に固有のあの潜在的増殖は、労働の印である反復とは原理的に異なるものである。労働の反復のほうは、生物学的サイクルに押しつけられ、それに従属したままである。人間の肉体の欲求と欲望は現われ、そして消滅する。それは一定の間隔をおいて繰り返し現われるけれども、長期間留まることはけっしてない。ところが、増殖のほうは、単なる反復と異なり、世界の中ですでに比較的安定し比較的永続的な存在を得ているあるものを増やすことである(231)。

 労働の反復は、肉体の欲求と欲望が現われては消えを繰り返している。それに対して、仕事の増殖というのは、すでに世界の中で物化されているものであれば、そのものをイメージして、それに似た新たなものを増やすことである(耐久性がある)。仕事によって作り出されたものは、人々に共通の永続的なイメージをもたらすからこそ、世界が存続し続ける。世界における共通のイメージを共有する基盤があることで、活動が可能になる。

 

 近代社会では、人間は、自分たちの作った機械の召使いとなっていて、人間の欲求や欲望を満たす器具として機械を使う代わりに、人間の方が、逆に機械の要求に「合わせて」いるというのである。このような不満も、その根は労働の現実の状態の中にある。というのは、この状態を見ると、生産はなによりもまず消費のための準備行動であって、ここでは<工作人>の活動力の特徴としてあれほどはっきりしていた手段と目的の区別そのものが単純に意味をなさなくなっているのである。したがって、器具は、もともと<工作人>が<労働する動物>の労働を和らげるために発明したものであるが、それがいったん<労働する動物>によって使用されると、その手段的性格は失われてしまう(235)。

 近代になると、人間は自分たちが作った機械に支配され、主体性を奪われ、労働と同じように、体を単調に動かし続けるだけ(<労働する動物>)の状態になった。

 

 <工作人>の世界においては、すべてのものがある効用をもたなければならず、すべてのものがなにかそれと別のものを得るための道具として役に立たなければならない。だから、このような世界においては、意味そのものは、目的としてのみ、つまり「目的自体」としてのみ、現われる。しかし、この「目的自体」というのは、実際には、すべての目的に適用できる同義反復であるか、そうでなければ用語上の矛盾である。なぜなら、本来目的とは、それがいったん実現されると目的であることを止めるものであり、手段の選択を導き正当化する能力を失い、手段を組織し生む能力を失うものであって、「目的自体」というのは存在しないからである(246.247)。

 工作人は何か目的をもって仕事をしている。しかし、工作人における目的は一時的なものであり、その目的がいったん実現すると、それが手段となって次の目的へと変化していく。このような状態では、工作人は世界の中に意味を見いだすことができず、それは、<労働する動物>と同じようなものある。

 

 <工作人>の標準は世界を実現するためには必ず支配しなければならないものだろう。しかし、それと同様に、その標準が完成された世界を支配することをも許すなら、<工作人>は究極的には一切のものを勝手に食い荒らし、存在する一切のものを自分自身のための単なる手段と考えるだろう(252)。

 世界をつくるには、手段と目的が循環する工作人の考え方が必要であるが、世界ができあがった後も、工作人の考え方で世界を把握しようとすると、世界が何かの目的を達成したときに、その世界は無意味なものになってしまう。

 

 <労働する動物>の場合、その社会生活は、世界を欠き、獣の群れの如きものであり、したがって公的な世界の領域を建設する能力も、そこに住む能力ももたない。これに反して、<工作人>は、正確に言えば政治領域ではないにしても、それ独自の公的領域をもつ能力を完全にもっている。その公的領域とは、交換市場であり、そこでは彼は自分の手になる生産物を陳列し、自分にふさわしい評価を受けることができる(255)。

 工作人は、世界を建設する能力がない<労働する動物>と政治的領域で活動する人の間に位置付けられる。工作人は、政治的とは言えないまでも、公的性質をもった領域である交換市場であればつくることができる(市場は工作人がつくった物が公衆に見られる場所であるので、公的領域である)。

 

 活動し語る人びとは、最高の能力を持つ<工作人>の助力、すなわち、芸術家、詩人、歴史編纂者、記念碑建設者、作家の助力を必要とする。なぜならそれらの助力なしには、彼らの活動力の産物、彼らが演じ、語る物語は、けっして生き残らないからである。世界が常にそうあるべきものであるためには、つまり人びとが地上で生きている間その住家であるためには、人間の工作物は、活動と言論にふさわしい場所でなければならない(273)。

 芸術家や詩人などは、活動を物語化し、記憶として継承していくことを可能にする工作人である。それ自体としては何も残さない活動と言論を物化することで、人々が活動や言論に参加できる基盤が生まれる。

 

第5章 活動

 言論と活動は、このユニークな差異性(自分を他から際立たせる能力)を明らかにする。そして、人間は、言論と活動を通じて、単に互いに「異なるもの」という次元を超えて抜きん出ようとする。つまり言論と活動は、人間が、物理的な対象としてではなく、人間として、相互に現われる様式である。この現われは、単なる肉体的存在と違い、人間が言論と活動によって示す創始にかかっている。しかも、人間である以上止めることができないのが、この創始であり、人間を人間たらしめるのもこの創始である(287)。

 言論と活動が行われる場は、複数のものがあり、それぞれユニークである。複数の個体が集まっただけでは、人間としてのユニークさや複数性は生まれない。

 

 言葉と行為によって、私たちは自分自身を人間世界の中に挿入する。・・・この挿入は、労働のように必要によって強制されたものでもなく、仕事のように有用性によって促されたものでもない。それは、私たちが仲間に加わろうと思う他人の存在によって刺激されたものである(288)。

 言論と活動は、強制的に始めるのではなく、自発的に始めるものである。

 

 「始まり」としての活動が誕生という事実に対応し、出生という人間の条件の現実化であるとするならば、言論は、差異性の事実に対応し、同等者の間にあって差異ある唯一の存在として生きる、多数性という人間の条件の現実化である(289.290)。

 活動が、始める能力を現実化するのに対して、言論は他者との差異を現実化する。ただし、活動に言論が伴わなければ、動物やロボットと同じである(290)。

 

 ほとんどの言葉と行為は、活動し語る行為者を暴露すると同時に、それに加えて、世界のある客観的なリアリティに係わっているのである。しかし、言論と活動にとっては、主体のこのような暴露こそ、もっとも肝心なものであるから、利害や物理的な世界の介在者を通して行う最も「客観的」な交りでさえ、この物理的な介在者とはまったく異なる介在者によって圧倒され、いわば制圧されている。この後者の介在者というのは、行為と言葉から成り立っており、その起源は、もっぱら、人々がお互いに直接面と向き合って活動し語ることにある。・・・私たちはこのリアリティを人間関係の「網の目」と呼び、そのなぜか触知できない質をこのような隠喩で示している(297)。

 介在者には、物理的な介在者(仕事によって作られたもの)と、行為と言葉からなる介在者がある。人間関係の網の目があるおかげで、物理的な介在者のように直接見たり聞いたりするものがなくても、リアリティを獲得(言葉などを共有:活動の基盤)することができる。

 

 ペリクレスは、ペロポネソス戦争戦没者を弔う有名な演説を行ったが、その演説の言葉を信じるならば、ポリスというのは、すべての海と陸を制圧して自分たちの冒険の舞台とした人びとの証人となるものであり、そのような人びとを賞賛する言葉の扱い方を知っているホメロスやその他の詩人が別にいなくてもやってゆけるような保証を与えるものであった。つまりポリスというのは、活動した人びとが自分たちの行なった善い行為や悪い行為を、詩人たちの援助を受けることなく、永遠に記憶に留め、現在と将来にわたって称賛を呼びさますためのものであった。いいかえると、ポリスという形で共生している人びとの生活は、活動と言論という人間の活動力の中で最も空虚な活動力を不滅にし、活動と言論の結果である行為と物語という人工の「生産物」の中でもっともはかなく触知できない生産物を不滅にするように思われたのである。ポリスという組織は、物理的にはその周りを城壁で守られ、外形的にはその法律によって保証されているが、後続する世代がそれを見分けがつかないほど変えてしまわない限りは、一種の組織された記憶である(318.319)。

 ポリスとは、詩人に頼らなくても、人々の行為、活動や言論を物語として記憶する組織である。そこでは、人々の物語を記憶する役割を果たす。

 

 正確にいえば、ポリスというのは、ある一定の物理的場所を占める都市=国家ではない。むしろ、それは、共に活動し、共に語ることから生まれる人びとの組織である。そして、このポリスの真の空間は、共に行動し、共に語るという目的のために共生する人びとの間に生まれるのであって、それらの人びとが、たまたまどこにいるかということとは無関係である。・・・この空間は、最も広い意味の出現の空間である。すなわち、それは、私が他人の眼に現われ、他人が私の眼に現われる空間であり、人びとが単に他の生物や無生物のように存在するのではなく、その外形をはっきりと示す空間である(320)。

 ポリスとは、現われの空間である(出現の空間)。

 

 <労働する動物>は自分を際立たせる能力を欠き、したがって活動と言論の能力を欠いている。・・・1848年の諸革命から1956年のハンガリー革命まで、ヨーロッパの労働者階級は、人民の唯一の組織化された部分として、したがってその指導的な部分として、近年の歴史の最も栄光ある、おそらく最も期待される一章を綴ってきた。・・・自分を際立たせようとする努力は、めったにない、しかし決定的瞬間にだけ現われた。たとえば、革命の過程で、労働者階級が、たとえ公認の党の綱領やイデオロギーに指導されていなくても、近代的条件のもとで民主主義的政治を樹立することができるという自分なりの考えを突然明らかにしたような場合である(343.344)。

 労働は公的なものを欠いた営みである。その一方でアーレントは、労働者が革命によって、公的領域に現われ、活動したことを評価している。

 

 労働運動は、そもそも最初からその内容と目的が多義的であった。その上、最も発達した経済をもつ西側世界では、労働者階級は社会の枢要部分となり、独自の社会的・経済的権力となった。ロシアやその他の非全体主義的条件のもとでも、住民全体が「首尾よく」労働社会に組み込まれた。このような事態が起こったところではどこでも、労働運動は、ただちに人民を代表する性格を失い、したがってその政治的役割を失ったのである。そして交換市場さえ廃止されつつあるような状況の中では、近代を通じてこれほど顕著であった公的領域の衰退がその極に達したとしても不思議はないのである(348)。

 しかし、労働運動の活動の面ではなく、労働それ自体が重視されたため、労働者は政治の舞台から退き、一部公的な側面をもつ市場までも失われた。

 

 理論の面で見ると、活動から支配への逃亡の最も簡潔で最も基本的な説は、『政治家』に見られる。この著作でプラトンは、ギリシア人の理解では相互に結びついている活動の二つの様式、すなわち、「始める」と「達成する」の間に深淵をもうけている。プラトンが考えた問題は、創始者が自分の始めたことを完成するのに他人の助けを必要とせず、最後まで確実にその行為の完全な主人であるにはどうすればよいかということであった。活動の領域でこの孤立した主人の地位を確保するには、他人がもはや自分自身の動機と目的をもって自発的にこの企てに加わる必要がなく、命令をただ執行するのに利用されるだけであり、他方、企てを始めた創始者は活動そのものに巻き込まれない、こういう状態を作り出すだけでよい。このようにして、「始める」ことと「活動する」ことは、まったく異なる二つの活動力となり、創始者は「活動する必要のまったくくない、ただ執行する能力をもつ人びとを支配する」支配者となった(351.352)。

 複数性を伴う活動は不確定なものだといえる。確実性を求めた結果、主人はやるべきことを決め、その実現に向けて人々に命令する(「ユートピア的な政治システムを組み立てる」:p357)だけで、自分が活動することはない支配者となった。このように物事を決定する人とそれを実行する人が分かれたことで、主人の命令は絶対的なものとなり、活動の必要がなくなった。

 

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)